漫画キャラクター
死なない


  ● 目 次
 
はじめに
 〔1〕
 〔2〕
 〔3〕
 〔4〕
 〔5〕
おわりに


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おわりに

 さて、長くなりましたが、この記事では子犬が作中でゲベに名づけられた名前「柴田」を使いませんでした。深い意図はありません。・・・というのは、無意識にやったことでした。なんとなく柴田という名前を使うことに抵抗があったのかもしれない。ゲベが子犬に名をやった、ということに二匹の主従関係のようなものを感じ取ったからかもしれません。ゲベも柴田もペットという立場はおなじ仲間だから、名前をやったというよりも親近感からあだ名をつけたぐらいの意味合いかもしれませんね。「柴田」は柴犬でした。

 結局のところ<死ぬ身体>と<死なない身体>の描き分けについて、その理由の細かいことは丸投げにしたのですが、『わざぼー』の読み方を考えるうえで関連することのように思える点があったのでメモ書き程度に記します。

 子犬が担った問題とは、“生きもの”である動物が“ペット”という商品つまり“もの”として扱われていること。<“生きもの”であり“もの”であるペットとして売られる動物の「きもち」を認めるか?>ということ問うている。―― ここで子犬が死ななくてはならないのは、生命を奪われて“生きもの”から“生き”が消えた“もの”になる(子犬の“もの”としての意味が強まる)ことにより、さらに問題を深化させるためではなかったか。<“もの”にも「いのち」と「きもち」を認めるか?>

 
<“もの”にも「いのち」と「きもち」を認めるか?>とは、「いのちときもちとぱぱぱぱぱーっ!?」に直接関係のある議題とは思えないので、子犬が死ぬ意味についてはもう少しちゃんと考えなければならないことだと思います。とはいえ、この問題は『わざぼー』にこそ存在するのではないかと思うのです。――流石にこれ以上話を続けるのは無理なので、また別の機会にしたいと思います。

 それにしも、私はかなり遠回りな読み方をしているのではないか。たぶん、全国の素直で良い子な曽山ファンは私が色々作業する手間など必要なしに、真っ直ぐに内容を受け止めることが出来るのではないかと想像します。ゆえに、こういった記事を煩雑に受け止めるでしょう。――こんなことをする必要はないのではないか?

 はっきり言って、私は曽山まんがが読めないのだと思います。
 読み方が下手くそなんです。

 それでも曽山作品が好きだから楽しく読みたいと思っています。

 私が紆余曲折して作品を読む様はさぞ奇怪に映るでしょう。けれども、これを書いた人間が作品を読んでいなかったり、作品や作者を嫌っている人間ではない、ということで、どうか同じ作家・作品ファンの一人が言った一個の意見として受け止めてやってください。



 それでは、最後まで読んでいただきありがとうございました。

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