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〔2〕 まんがキャラクターは死なない
―― 曽山まんがの写実性
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実際に爆弾が破裂したら近くにいた人間の身体は見るも無惨なものになってしまいます。「写実」的な表現であれば傷ついた身体や死体をも否応なく描写します。けれども記号的なまんが表現では爆弾が破裂したら「煤けた顔」という「記号」を持ち出せばいいのです。つまり、記号的な表現で描かれたまんがキャラクターは生身の体を持っていない存在なのです。
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『教養としての〈まんが・アニメ〉』(講談社現代新書)より |
大塚の論ずるところ、現在のまんがはある程度の写実性を獲得したようであるから、まんが表現が「傷ついた身体や死体」を描写しないといわれても俄かに信じがたい話でしょう。しかし、まんが表現における傷や死は“記号としての傷・死”なので、記号を組み込む、あるいは組み替えさえすればキャラクターは傷つき、死ぬ。組みなおせば治癒するし生き返ることも出来ます。
「トイレのおばちゃんとわざぼー」〔『わざぼー』5巻〕は、大塚が説いた「まんがキャラクターは生身の体を持っていない」とする説を保障するような話でした。外傷が記号にすぎないことをはっきり示している。また、「不死身のゆうれいとわざぼー」〔同 4巻〕のバケラーにおいて記号的な死が描かれたことも思い合わせて、曽山はまんが表現が記号的であることに意識的でこの性質を積極的にとりいれつつネタを組み立てていると思われます。裏を返せば、まんが表現が写実性をもたない記号的表現であるとする以上、死は描けないし致命的な傷を描くこともできないはずなのです。
先に現在のまんがはある程度の写実性を獲得しているようだと言ったけれど、それは写実的に描こうという意欲と写実性を付与し続けること、また写実的だと認識される表現手法の普及によって可能なのだと思う(やはり、本来まんがキャラクターというのは生身の身体ではない)。曽山の代表作品『絶体絶命でんじゃらすじーさん(以下略記:じーさん)』は写実性のない記号的表現を主に描かれるのだけれど、『わざぼー』は事情が異なります。
おそらく『わざぼー』は「なんでもあり」と銘打たれているものの、ある程度の写実性を持たせたかったように思う。そうでなければ「悪夢の記憶とわざぼー」〔同 3巻〕で血を流すみみみにむむがあそこまで怒りを覚える事もなかっただろうし、同じく3巻収録の「外伝」でまーがヘビーに攻撃を放ったことによる画面いっぱいの血しぶきの描写に残虐性はなかったはずです(ヘビーは死を象徴的に表現する“消滅”ではなく写実的に死んだと思う)。それよりも「悪夢の記憶とわざぼー」でむむの悪夢の中に白目をむいて倒れている男たちがいた。これはあきらかに写実的な死体を描こうという意図があったのではないか。しかし、『わざぼー』ではレイトーンやバケラーのような“まんがはあくまで写実性のない記号の組み合わせに過ぎない”という表現もされます。「わざぼー」は写実性と非写実性が混在する世界なのです。
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