漫画キャラクター
死なない


  ● 目 次
 
はじめに
 〔1〕
 〔2〕
 〔3〕
 〔4〕
 〔5〕
おわりに


・ * ◆ * ・


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〔5〕 記事を書いてから3年
   ―― 感想と追記

 「まえがき」にも書きましたが、この記事は2009年11月26日に別サイトで本誌連載中の『わざぼー』の感想に書いた記事でした。ここで作品がどんなふうに描かれているのか?ということを確認したのには、「いのちときもちとぱぱぱぱぱーっ!?」という作品を読む以外に、『わざぼー』を読むための参考にする目的もありました。

 記事本文ではほんど触れることができませんでしたが、『わざぼー』もまた<死なない身体と死ぬ身体>のキャラクターを混在させています。この作品ではキャラクターが死ぬ・・・あるいは死を暗示する描写があります。一方で記事のなかで紹介したレイトーンやバケラーのような一見死なないキャラクターも登場します。

 当時『わざぼー』は連載中で物語がどんなふうに展開し結末を迎えるのかわかりませんでしたから、この作品が最終的にキャラクターをほとんど全員死なせたような描写で終わることなど知る良しもありません。とはいえ、作品のムードが生・死をめぐる登場人物同士の交流であったり、また、命あるものとしてその力の限りをやりぬくこと――いわゆる“命がけ”ということによって登場人物の心情を表現していた。そうでありながら、死なない身体のキャラクターも存在する。

 それで一体どうやって生きること・死ぬことへの感情を表現する事ができるのか

という疑問があったのでした。

 これは「まえがき」で否定した作品批判に該当するものでしょう。・・・けれども、私には、
“私が矛盾と思える点”があるからといって作品が取るに足りないものだと言うつもりはありません。おそらく、その矛盾は“作者にとっては矛盾ではない”。作品がどういった性格のものか、どのように描かれているものかを見据えて、私が疑問に思った矛盾を解消すれば、真っ直ぐに作品と向き合えるのではないか。

 果たして、この作品(『わざぼー』)ではキャラクターは死ぬのか、死なないのか。“消滅”という描写は現実における“死”の暗示なのか?それとも、本当に“消える”ことだけを表現しているのだろうか?

 この記事で詳しく触れることはできないけれど、『わざぼー』における死を暗示した表現を3つ挙げる。戦いに敗れたキャラクターの多くは“消滅”する。一方、主要キャラクターであるむむとめんめんは致命傷を負ったことで意識を失い、登場キャラクターによって「死んだ」と説明される。また、みみみとまーは戦いの末、崩れる建物から逃げ損ねたような絶望的状況が描かれたあとに建物の遠景に切り替わり崩落の様子が描写された。

 “消滅”、致命傷と他のキャラクターからの「死んだ」という台詞による説明、建物からの逃げ遅れを予感させる描写と建物の崩落。どれをとっても“死”を暗示するようではあるけれど、直接的な死ではありません。

 「死んだ」と説明されたものはたしかに「死」の描写以外の何ものでもないように思えるけれど、これは登場キャラクターの、しかも、彼らに敵対し殺そうと危害を与えたキャラクターの見解なので、願望的な“手ごたえ”を言うものとも限りません。

 『わざぼー』の登場人物たちが大好きだった私としては全員生きていてほしいので、これが表現手法による“死”であって、現実と同等の“死”ではないと思いたい・・・それこそ願望的な見方でしかないけれど。

 ふと、今回記事とも作品とも直接関係のない話題を差し挟むのですが、現実の事象を模倣し表そうとする表現はどれをとっても暗示であって、実際ではない。そのように事象そのものではない抽象的で曖昧なものとして描く手法は漫画に限らず舞台演劇などでも効果的な技として愛好されてきた歴史があるように思います。

 とりあえず、『わざぼー』は続編の『わざぐぅ!』に物語は引き継がれ、続いています。詳しいことは作品が締めくくられてから考えたいと思っております。


 

 論の締めくくりとして、この記事を書いてから大分間が開きましたので私のほうでも考えが変わった事がいくつかあります。本文に書いたことへの訂正あるいは補足として追記させていただきます。


● 写実性の付与について
 〔2〕の3段落目で現在のまんがが写実性を獲得していることについて私なりに考えた理由を述べました。これに少々の訂正があります。

現在のまんがはある程度の写実性を獲得しているようだと言ったけれど、それは写実的に描こうという意欲と写実性を付与し続けること、また写実的だと認識される表現手法の普及、あるいは“読者の写実性を認識する理解力”によって可能であると思われる。

 
“”部分を追加したのは、写実性を付与するのは作者ではあるけれど、それを読み取るのは読者であって、結局のところ読者が写実性を読み取る事が出来なければいくら作者の意向があったとしても無視されてしまうというのが本当のところではないか、と思い直したからです。作品が「読み取ってもらえるはずだ」という作者から読者への信頼によって描かれていると考えてみれば、私の“読み方”を書いた記事は作者の表現に疑問を呈するものであって、その信頼を裏切るもののように思われるかもしれません。

 この記事は作者と読者の表現を介した信頼関係を念頭に置く人にとっては不可解な記事であったように思います。


● ゲベの夢の中、柴田との会話について
 これについて、記事では“<死なない身体と死ぬ身体>のキャラクターを混在させることへの作者の消化不良をキャラクターによるやり取りで吐露したもの”という風に結論したのですが、素直に読めばやはり
“たとえ「いのち」が途絶えても「きもち」を汲んでくれる仲間がいれば存在が忘れ去られ捨て置かれるようなことはない”ということを言わんとして挿入した会話でしょう。やりとりのそっけなさは読者が受け止めるテーマの重圧を軽減するための配慮で、作者の語りの上手さのように思えました。


● 瓦礫に埋まるステイル
 少々複雑な話(煩雑でもあるかもしれません)になります。
 記事内では散々“ステイルは死んでいない”ということを強調していました。
(そういえば、本論のほうではステイルを名指ししていなかった。ステイルとはペットショップの“店主”のことです。)これはあたりまえといえばあたりまえのことで、悪人とはいえステイルを殺してはマズイでしょう・・・

 と、
倫理的な観点でものを判じるにとどめず、作品の構造から考えてみたいのですが、この作品のステイルというのは作品で訴えたい意見に対して“否定的な考え方”の権化といえるでしょう。その“否定的考え方をする存在”ステイルに主人公らが反論を示すことで、伝えたい内容をより強く訴えていくという方法をとっているのだと思います。この論のぶつかり合いが戦いによって描かれており、“否定的存在”に反論する行為が討伐として表現されているのです。

 「いのち」「きもち」の大切さを訴えていながら、ステイルに暴力行為をおよぼし死ぬような目にあわせているとは何事か。それこそ作中で悪の行為として言った「いのち」を粗略に扱う行為ではないか。などと疑問に思わなくもないですが、ここで行われた暴力は「いのち」を粗略に扱う行為それ自体として描いているのではなく、あくまでステイルに対する反論を言わんとする表現だと受けとるべきところでしょう。

 話がかなりまどろっこしいので理解しにくい話題だと思いますが、“子犬の死”は疑問を促す事件であり「いのち」が粗略に扱われる事態について問題提起したものである。一方、“じーさんら主人公陣との戦いの末ステイルが負傷した事”は戦闘で表現された論のぶつかり合いの結果、ステイルが論破されたことを彼女が戦闘不能の状態に陥った姿で描き表現しているものと思われます。

 ・・・やはり文章で書くと分かりづらいので作品構造を簡略に表でまとめてみました。


〔問題〕
ペットとして扱われる動物の「いのち」は販売者や飼い主によって支配・管理されている。この動物に意思(きもち/尊厳)を認めるか?

〔問題についての意見と行動〕
意 見 A
(主人公陣)
子犬(動物)のきもちを認める(尊厳を守る)
 →【行動】 生前の意志を汲み子犬の亡骸を地上に葬る
意 見 B
(ステイル)
子犬(動物)は商品なのできもちをを認めない(尊厳の否定)
 →【行動】 飽きたり、邪魔になったら捨てる
      
〔描写内容と作中の表現〕
描 写 内 容 作 中 の 表 現
問題提起 子犬への暴力と死
ABの討論 主人公陣とステイルの戦闘
Aが論破した ステイルの敗北(戦闘不能・営業不能の痛手を負う) 

〔“暴力”で表現される内容〕
子犬が受けた暴力 「いのち」を支配・管理する他者(ペット販売者や飼い主)による尊厳の否定
ステイルが受けた暴力 対立意見による反論


 子犬とステイルは同じように“キャラクター”として登場し“生きもの”として描かれ、いずれも“暴力”を受ける。けれど、それぞれ登場する目的が異なるのです。子犬は問題提起のための存在であり、ステイルは問題に対する一つの意見を代表した存在ということがいえるでしょう。子犬が受けた“暴力”は提起したい問題に関連した事件(「いのち」を支配・管理する他者から尊厳を否定される)を言うためであり、ステイルが受けた“暴力”は対立意見(主人公陣ら)から反論されたことを意味します。

 記事〔1〕ー〔4〕では子犬が<死ぬ身体>でステイルが<死なない身体>として描かれているという点を指摘したけれど、そのような書き分けがされた理由は登場する目的のためであった、と考えれば納得がいくように思います。子犬が死ななければならないのは問題を訴えるためであり、ステイルが死なないのは主人公陣との討論の末、彼らから論破されたことを表現するためだったから、というふうに言うことができるのではないか。

  子犬を殺す必要はないのではないか?
  ステイルなんて死んでもかまわないではないか?


とおっしゃる人もいるかもしれない。けれど、それぞれが死ぬとか負傷したとかの表現で描かれた理由を考えてみれば納得行くことのように思われます。

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