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‖21号(4−4)
〔表〕
・ 2人をつなぐ・・・/2つのぼー。
・ 立ち上がれ、みみみ!!
〔柱前〕
・ 失意のみみみ・・・どうする!?
大分間をおいて、21号。
むむみみとか全く考えていなかった読者が最も気まずい思いをした表紙だと思う。私は是が非でもカップリング思考なしで読むぞー!!と意気込んでいたけれど、これを見て諦めました。
表紙は白黒ページ。
絵はみみみとむむが背中合わせに立っている、若しくは、みみみがむむの背中に寄っかかってるという図で、みみみの視線は背後のむむを追っているように見える(ちょっとだけ失礼な画面説明;)。私がこの絵でとっても気になっているところは、みみみとむむの接点が濃い影になっていて、手前にいるみみみの輪郭がとぎれとぎれホワイトで描かれている。この接点での輪郭の曖昧さに、なんとなくだけれどキャラクターの個別性をも曖昧にして、ひとつの塊としてみせようという意図があるのではないかという印象をもちました。(解釈には個人差があります;)
・・・ようするに、くっ付いてる感が強調された絵じゃないか、ということです。
そして、添えられたコメントが
「2人をつなぐ・・・/2つのぼー。」
・・・ニュアンスがおかしい。ぼーの役目は2人をつなぐ橋渡しだと言っている。
揚げ足取るとぼーの数え方は2本。・・・や、どうでもいいことです。そんなこと。
他、作者として表記されている曽山先生の名前の上に「『でんじゃらすじーさん』もよろしく!」というような宣伝が添えられることがあるけれど、その文末は「!」で締められている場合が多い。でも、この回だけはハートマークだったりして・・・それとなくラブを連想させる。
なんとなくだけれど、
表紙全体がムードをラブ方向に持っていっている感があります。
ここで用語の定義を確認するのも今更感ありますが、<むむみみ>というのはむむとみみみが恋人同士もしくはそれに近い関係にあると見なす読み方のことを言う(と私は思っている)のだけれど、いわゆるカップリングですね。そういった、同人的なカップリングの観念〔注〕でいうならば、むむみみは読者の願望的な憶測であったり、想像を膨らませたに過ぎないもので、作品自体がそれを描いているとはみなさない。あくまで読者個人の嗜好的な読み方だといえるでしょう。
しかし、この号において本誌側がむむとみみみの恋愛関係を疑って読むことを煽っている節があるように感じられた。
今まで本誌コメントを参照してきましたが、これらは作品の内容に則したものが添えられ、読者の気持ちを惹き付ける、盛り上げるというような効果を期待しているように思われました。また、作中で注目して欲しいポイントを提示していることもありました。だから、作品が何を描いているのかということを読むための一つの指標になるものとも思われます。
本誌コメントが(今回はコメントだけではなく、作者の名前の上の宣伝もですが)なんとなく<むむみみ>を予感させる煽りをしているということは、作品自体がむむとみみみの恋愛に着目した読み方が可能であるということを主張しているようにも思える。<むむみみ>はカップリングという同人的なものではなくて、作品が描こうとしている人間関係なのではないでしょうか?
ただし、わざぼーF.C.での今号の内容のまとめは以下のようになっています。
友達になったシッポウを第3のわざぼー使い・技神まーによって消されてしまった。すっかり落ち込んでしまったみみみの前に、むむがかけつける!!
むむ現る!
友を守るために強くなる。戦うものたちの常識を教えてくれた!
わざぼーの大切さを気付かせてくれた!!
強くなるため、悪と戦うためにわざぼーは欠かせない。だって、わざぼーはみみみにとって最高の相棒なんだから!
という具合で、この話でのむむの役割は「戦うものたちの常識を教え」る、また、「わざぼーの大切さを気付かせ」る、という戦う者として、おなじわざぼー使いとして、道を踏み外しそうになっているみみみの軌道修正をするというものでした。だから、おなじ共通点を持つものに同じ志を共有して欲しいという程度の意思表示がされただけのように書かれている。特に<むむみみ>を感じさせる要素が顕著であったようだとは語られない。
結局のところ「2人をつなぐ・・・2つのぼー。」と、かなり意味深長な煽り文句ではあったもののわざぼー使いという共通点によって、戦士としてのコミュニケーションが交わされたというなんの色気もない一文としても解釈できるということです。
しかし、表紙全体がムードをラブ方向に持っていっているように読める要素が十分あるということは言えそうですし、本誌コメントが<むむみみ>を煽っているわけではないとは言いきれないでしょう。作品が明確に描いているわけでもないことを断定的に書くことはできない。内容に則して曖昧な言い回しを選んでいるのではないかと思われます。
※ 注
私は同人におけるカップリングとは、作品が描いているかどうかに拘わらず個人の嗜好によってキャラクター同士を恋愛関係に発展させる、読者の願望的な想像を膨らませたものと理解していました。そういった私の認識と合致すると思われる定義があったので引用します。
(略)
カップリング (もしくはその要素) は本来、元ネタとなった アニメ やマンガ、小説や ラノベ などの作品そのものには直接は含まれていないものであって (完全に腐女子向けの作品は別ですが)、見ている ファン、あるいは二次創作を行う同人作家の勝手な 妄想 がもたらす一種の錯覚、脱線、外野の勝手な楽しみでしょう。
しかし、しばしば作品そのものの意味や内容を 「正しく理解した」、作者や制作者の意図を
「正確に読み取った」、さらには 「キャラクターの気持ちを完全に理解した、共有した」
と自分が感じられた時にひらめいて生まれることもあり、本人にとって間違った
(ように見える) キャラ同士のカップリングや方向性は、「作品をちゃんと見ていない」「理解できてない」「何も分かっちゃいない」
と決め付ける原因になったりもします。
また作品をちゃんと見ていない、理解できてないってことは、「その作品が好きじゃないんでは?」「その作品を心から愛していないのでは?」
という疑念を生んでしまいます。 そうなると 「好きでもない作品で同人をやるってどうなの?」「作品のメッセージを理解できないくせに、「二次創作」
ってアリなの?」 みたいな意見にもつながってしまいます。
(以下略)
『同人用語の基礎知識』
「カップリング/カプ/CP」から「カップリングの方向違いでバトルになることも…」
の項より引用。 URL[ http://www.paradisearmy.com/doujin/pasok4z.htm ]
さて、この引用部分には私がかつてから疑問視している事柄が含まれています。わたしは同人というものについて、おおまかには原作を個人の嗜好によって改変することだと思っています。しかし、すべての同人作家による二次創作作品が個人の好みを優先して作品を作り変えたもの、原作とはキッパリ別物だ、というのも少し不思議な気がしていました。実は同人の範疇で創作された作品の中にも<内容を読み取った>ためにそれを表現した、という作品研究の立場でいうところの論文的な内容を描いている方も中にはおられるのではないか?と思っています。これがはっきりしないのは同人作家が製作意図を明らかにしないためであったり、創作手段が解釈を他者に対して説明的に伝える方法として一般的ではないから理解されにくい、ということかもしれない。
とはいえ、そのような手段を選んでいるということは、解釈の異なる人間にまで理解を得ようというつもりはなく、同じ解釈をしたもの同士の内輪での盛り上がりのみを求めている、ということもできなくはない。
解釈に到る過程を示すことは、その解釈を想定し得なかった他者にも理解を望めることになると思うのだけれど、その<過程>をはっきり示せないから「 ファン、あるいは二次創作を行う同人作家の勝手な 妄想 がもたらす一種の錯覚、脱線、外野の勝手な楽しみ」ということになってしまうのではないか。
作品をめぐってのファン同士の諍いを避けるために、一律、ファンや同人作家の読みは妄想だということにすれば、それぞれに作品を論じる権威は認められないことになり、解釈の違いによる争いは起こらないのかもしれない。けれど、もしも自分に解釈に到った道筋があることをはっきり自覚してるのであれば理解してもらいたいと思うし、自分とは別の解釈を導く方法があるのならばそれを知りたい、と私は思います。
「どうしてこうなった」という疑問に自問自答するのも他人に解答するのも面倒なこととは思いますが・・・私はそういうことに頭を悩ませるのが好きですv
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